普遍の真理を求めて

こころ☆クラフト

私たちが生きていく上で、自分の個性を知り、個性を伸ばしていくことは大切なことだと思います。
個性は人それぞれ違っていて当然で、他者の個性を認めていくこともまた大切なことです。

しかしやはり、全ての人に共通した普遍の真理があることも疑いようがなく、その真理の道から外れてしまっては真の幸福は得られないとも思います。

こころ☆クラフトの目的は、「生命」の普遍の真理を追求し、個人の「個性」を輝かせていく事にあります。

ここで少し、真理の探求というテーマについて考えてみたいと思います。

まず、物事を探求する時の思考として、帰納的な思考と、演繹的な思考があります。
帰納的な思考とは、絶対に間違えのない確かなものを、実験と結果確認を繰り返して、真理に向かって探究し続けることです。科学的思考と言い換えてもいいかもしれません。
演繹的な思考とは、真理=答えを先に想定し、それを経験と道理で証明していくことです。宗教がこれに当たります。

両者には利点も欠点もあります。
帰納的に導き出された答えは信用性はありますが、真理に辿り着く事は極めて難しいです。少なくても私たちが生きている間には、絶対に辿り着けないと言っても良いでしょう。
演繹的な答えは、基本は信じるしかないです。ただし最大の欠点は、想定した答えが、もし間違えであったなら、全てが台無しになるという事です。

しかし私たち人間が、真理を知るためには、演繹的思考に頼るしかありません。
だから人間の歴史の中で、宗教が生まれました。人は真理を信じることで、心が満たされてきたのです。

宗教とは何か・・またいつか詳しく論じたいテーマですが、基本だけ抑えておきましょう。
宗教とは、「人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系」とWikipediaにはあります。
さらに、「その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のこと」とあります。

言い換えれば、目に見えない世界の真理に対して、答えを出したものが宗教であり、後者は宗教団体そのものを指していますね。
よく日本人のほとんどが「無宗教」だと言いますが、これは単純に、宗教団体に属していないというだけのことです。本当に無宗教かといえば、決してそうではなく、ほとんどの人が何かしらを信じていると思います。
例えば一昔前の日本人の多くが「お金が全て」というようなお金教の信者が多かったと思います。笑
最近はどうでしょうか?ネットの情報を信じているネット教もいれば、特定のユーチューバーなどを信じているインフルエンサー教もいるかもしれません。陰謀論者もそうかもしれませね。
最近多い、スピリチュアル信者なども、立派な宗教者と言えると思います。

要は、何か特定の思想を信じ、その思想を、人生の生きる道の判断基準においていたのなら、それは宗教を信じていることと、本質は変わりありません。
そして先ほど演繹的な思考のリスクを話した通り、もしその思想が間違えていたならば、自分の生きる道そのものが間違えているかもしれないというリスクは伴っているのです。
最近は、お金教は間違えだったと、反省し始めている人が増えてきているみたいで、良かったですね。笑

自分が信じている思想が正しいかどうか・・答えがわかれば苦労しないのですが、答えは自分で決めるしかありません。
しかし信じている思想が「間違えかどうか」を検証する方法は無いこともありません。

思想を「思考」で客観的に判断する

思想を「思考」で捉える場合、まずはその判断基準となる「思想体系」があるかないかが問題となります。

キリスト教には「聖書」があります。キリスト教を思考的に判断する場合、聖書という判断基準が存在することになります。
では聖書は誰が書いたのでしょう?イエスキリストですか?実際は何人もの方が書いたものをまとめたものが聖書であります。キリスト教的に解釈すると、実際は「神様」が人の手を通して書いたものらしいです。
信じる、信じないはさておき、現在では「聖書」という基準があるので、この内容が正しいか正しく無いかを思考して判断することは可能です。

仏教には仏典があります。仏典も釈迦が書いたわけではありません。釈迦の時代は大切な教えほど「相伝」と言って、言葉で伝え、頭の中にしまっておくというスタイルが一般的でしたので。そして釈迦の滅後に、弟子たちが集まって仏典結集を繰り返し、言葉として残されたのが仏典です。
そして釈迦の教えも、仏典として今でも客観的に判断する基準は残っているのです。

日本では戦後に、新興宗教が流行りましたが、中には一目で怪しいものも少なくなかったと思います。
経典があったとしても、キリストと仏教と日本の神教の寄せ集めみたいなものもありましたから。
そもそも少し考えればわかりますが、創造神を信じるキリスト教と、仏と言っても人間のことであり、人間の生き方を説いた仏教では、根底の前提条件が全く違うのです。それをごちゃ混ぜにした思想など正しいはずがありません。
もちろん聖書の言葉を引用し、仏典の言葉を引用し、何かを語ること自体はありだと思います。しかし双方の言葉を流用し、独自の経典を作った場合は、わかりやすい矛盾が起こるものです。

それでも、一般の人にとっては、何が正しくて何が間違えであったかの見極めは難しいものであったと思います。

今の世の中はどうでしょうか?
ネット上に様々なスピリチュアル情報が溢れかえっています。
元を辿れば、誰かが夢の中でお告げを受けたとか、私は宇宙人だとか、過去世から来た人の話だとか、アカシックレコードを読んできたとか・・根拠の薄い話ばかりです。
でも私は、それら全てが偽物とは思っていません。人間の中には阿頼耶識という過去世や宇宙生命に繋がった記憶があるのですから、そこにアクセスして答えをもらってきた人がいてもおかしくないと思うからです。

問題はその先。これらの情報が、ネットに流れた時点で、コピーコピーを繰り返し、綺麗な言葉に自分の解釈を加えて、あたかも自分が神の化身のように、いくらでも語ることができるからです。
実際に、今のスピリチュアル業界は、似たようなあらゆるスピリチュアル思想が氾濫しています。例えて言うなら、昔10の新興宗教があったとしたら、今は百個、千個、1万個〜の偽スピリチュアル教が広がり続けているようなものだと思います。
しかも聞こえの良い、綺麗な言葉ばかりを集めたものが多いので、何が正しく、何が間違えているか、その判断はより一層難しくなっているような気がします。

思想を科学的に判断する

次に重要な判断基準として、その思想が科学的に見た場合、どうなのか?という観点です。

これは思想を、帰納的に判断するということになるかと思います。
演繹的な思考では、真理の全体像を捉えました。しかし帰納的な科学においては、真実を一歩一歩追及していくスタイルです。つまり最終的には、両者の答えが一致しないと真理ではないのです。
と言う事は、科学的に解明されている観点で見た場合、その思想が語っている内容に反していた場合は、思想自体が間違えである・・という事が言えるのです。

量子論など最新科学の発展で、創造神が世界を創ったとされる思想には、疑問が生じてきました。
代わりに宇宙には物質的な側面と、非物質的な側面があるとの思想が普及してきました。
量子論の認知は、科学の世界を一気に進歩させると共に、なんでもありの世界観を誕生させてしまったのかもしれません。

量子論においては、輪廻転生の世界観は、科学的に証明されたようなものでした。
しかし多次元論や、パラレルワールドの世界観までも登場してしまった為、今ではスピリチュアルなんでもあり、語ったもの勝ち、みたいな状況に陥ってしまったと言えると見ています。

現実世界における結果が最重要

最近のスピリチュアル思想の中には、目に見えない精神世界が本質であり、目に見える物質世界は虚像であるかのような考え方が増えてきたように思います。
これは、現実に私たちが体験している事は、さほど意味がなく、精神世界での魂の成長が重要であるという類の論理になってきます。しかし、この類の思想は、現実での人生を軽視する傾向に陥りがちな危険なものだと思っております。

私たち人間は、言葉で言えば、この地球という三次元の世界に、何かしらの目的を持ち、その使命を果たし、幸福になる為に生まれてきていると思います。
この原点から離れてしまったら、今生きているという意味を見失ってしまうと思うのです。

この観点から、これまでの話をまとめていきたいと思います。

まず、思想に言葉としての「教え」の体系があったなら、それを客観的に見て判断することができます。
体系のないもの全てが間違えとも言えませんが、判断基準に乏しいことには間違えありません。

次に、その「教え」の内容を科学的に分析した結果、科学と相反していたら、それは間違えという事になるでしょう。

そして何よりも大切なのは、その「教え」どおりに人生を生きることで、言われているような「結果」が出るか出ないか、という事が一番のポイントになると思います。
この結果は、目に見えない世界で起こるだけでは不十分です。例えば精神的に成長した・・という結果だけでは・・それ自体は素晴らしいことであっても、やはり不十分だと思います。

現実世界に目に見える、具体的に何かが変わり、より良い人生になった、より幸せになった・・というような、誰の目から見ても明確な答えが出るものが「本物」だと思うのです。

普遍の真理とは、一人だけに当てはまる真理ではありません。
この人にはあっていたけど、この人には向かなかった・・というようなものでもありません。

全ての人に共通の、宇宙の真理、生命の真理。
これを伝えるのは、言葉ではなく、目にみえる結果、体験でしか語れないのだと思います。

その体験の積み重ねが、個人の絶対の確信に変わっていき、
多くの個人の体験を通した成長が、他者を、世界を、変えていくのだと思います。

大切な人に伝えていく為の、「結果」を求めて・・・。

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